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中国のAI企業DeepSeekが開発した大規模言語モデル「DeepSeek R1」の蒸留(distill)モデルを基に、サイバーエージェントが日本語データで追加学習を行った「DeepSeek-R1-Distill-Qwen-14B/32B-Japanese」(2025年1月27日公開)の「回答」は下記の通りである。
(DeepSeek-R1-Distill-Qwen-14B/32B-Japaneseは、LM Studioによって自分のPCに組み込んでローカルに動作させた。そのことについては、「deepseekをローカルPCで利用する方法」を参照されたい。)
Deep Seekの回答に関わる筆者のコメント
サイバーエージェントが日本語データで追加学習を行った成果と思われるが、「言葉の差異は、情景の雰囲気を変える潜在力を持つ。」とし、「池」と「井戸」の地理的・文化的文脈の違いを論じているなど、日本的状況との関連での説明がある点ではOpenAIのChatGPTよりも優れているように思われる。
とはいえ池と井戸のイメージに関する分析など、指摘内容の妥当性に問題がないわけではない。池=自然物、井戸=人工物といった意味の対置がなされているが、池=自然物というのは必ずしも正しくない。下記指摘のように、芭蕉の句における「古池」は自然物ではなく、人工物と考えられる。逆に人工物だからこそ、「古い」という形容詞が意味を持つのである。自然物に対して「古い」という形容詞を付けた場合には古くから存在しているということを意味するだけであり、人工物に対して「古い」という形容詞を付けた場合とは趣がかなり異なってしまう。
この点に関して、堀信夫(1975)「芭蕉の表現」『古文研究シリーズ 5 芭蕉』尚学図書 (『国語展望』別冊 No.14)、pp.13-20[ユーザー登録によりオンラインで閲覧可能]の下記指摘が正しいように筆者には思われる。
とはいえ池と井戸のイメージに関する分析など、指摘内容の妥当性に問題がないわけではない。池=自然物、井戸=人工物といった意味の対置がなされているが、池=自然物というのは必ずしも正しくない。下記指摘のように、芭蕉の句における「古池」は自然物ではなく、人工物と考えられる。逆に人工物だからこそ、「古い」という形容詞が意味を持つのである。自然物に対して「古い」という形容詞を付けた場合には古くから存在しているということを意味するだけであり、人工物に対して「古い」という形容詞を付けた場合とは趣がかなり異なってしまう。
この点に関して、堀信夫(1975)「芭蕉の表現」『古文研究シリーズ 5 芭蕉』尚学図書 (『国語展望』別冊 No.14)、pp.13-20[ユーザー登録によりオンラインで閲覧可能]の下記指摘が正しいように筆者には思われる。
「古池」という言葉には、自然の河川沼沢と違って、人の手で造営されたもの特有の、人の気配が感じられる。とくにこの場合、「古」の一字の働きは絶妙で、この「古池」には、人の世の栄枯盛衰に立ち合い、人の世の哀れを見尽したもののみが持つ、しみじみとした情趣が継綿している。そのような幽深な味わいに、「蛙飛ぶ」というユーモラスなイメージが、「水の音」を媒介として結びついたとキ」、一句はすぐれた俳諧の発句のみが持つ、幽玄にしてかつほのぼのとしたューモラーな詩情を匂い立たせるようになったのである。
なお芭蕉が1680(延宝8)年の冬に移り住んだ深川の草庵「芭蕉庵」の敷地にあった古池は現在はない。池の跡地は、東京都指定の名称地「芭蕉翁古池の跡」となっている。
以下、サイバーエージェント日本語追加学習版DeepSeek R1の回答
「創作性(Originality)」の概念と俳句例への考察
松尾芭蕉の名句「古池や蛙飛びこむ水の音」は、「静寂の中の一瞬の動態」という俳諧的技巧で知られる。質問者の提示する「古井戸や蛙飛びこむ水の音」を軸に、「創作性」の有無を論じる際、以下の点が重要となる。
1. 「池」から「井戸」への置換と情景の変化
「池」と「井戸」は、地理的・文化的文脈で異なる。
- 池:自然の水たまりを連想させ、「春の桜」「夏の蓮」など季節感や広大さが想起される。
- 井戸:人工的な掘削物であり、「深い井筒」「暗い影」や「水の冷たさ」などのイメージが付随する。
言葉の差異は、情景の雰囲気を変える潜在力を持つ。例えば、井戸周辺に「苔むした石段」や「井戸端に咲く野草」といった具体的な描写が伴えば、「池」版とは異なる詩的世界を構築できる。
2. 創作性の定義と置換行為の位置づけ
「オリジナル性」は必ずしも「新規性」ではない。
- 単なる言葉の置換であっても、作者が意図的に新たな情景や解釈を込めたならば、「独自性」と評価される余地がある。
- 一方で、「池→井戸」のような類似語の選択は、単純な代替行為と捉えられ「独創性に欠ける」と批判されることもある(例:ロバート・クリークマンが指摘した「差異の弱さ」)。
[引用者による注記]上記の文章における「ロバート・クリークマン」なる人物は実際には存在しない架空の人物と思われる。生成AIではこうした「創作的間違い」がよくあるので、生成AIの回答の利用に際しては注意する必要がある。
判断基準となるのは以下の要素:
- 意図性: 井戸を選ぶ理由(例:特定の風景や比喩的意味を込めたか)。
- 詩的効果: 景観変化が俳句に新たな余韻や思索を与えるか。
3. 俳句における「言葉の選択」の重要性
俳句は、文字数が限られているため、単語1つで情景・季節・心情を凝縮する技術が求められる。
- 「古井戸」という選択が、「井戸の水音」から連想される「深淵への誘惑」や「時間の重み」といった新たなテーマを開拓しているか?
- 逆に、置換が無味な場合(例:池→川への変更)、それは「創作性を欠く行為」とされても妥当かもしれない。
4. 批評的文脈における反論
反論1: 「井戸」は芭蕉の句で既に用いられた可能性も
→ 俳諧師・与謝蕪村の句など、歴史的な文脈を考慮すべき。
→ 俳諧師・与謝蕪村の句など、歴史的な文脈を考慮すべき。
反論2: 「古井戸」という言葉が地域的・個人的記憶と結びつく場合
→ 作者の体験に基づく選択であれば、オリジナル性は保証される。
結論
「古井戸や蛙飛びこむ水の音」に創作性があるか否かは、以下の観点で判断される:
- 言語的差異が情景・意味を変容させるか: 井戸が「深淵」「悠久」など独自の意象を生むなら肯定。
- 作者の意図性: 単なる代替ではなく、詩的効果を意識した選択であるか。
結論として、「池→井戸」の置換自体は独創性を欠く可能性もあるが、文脈や意図によってはオリジナル性を持つと解釈できる。俳句の真髄は「言葉の効果」と「情景の凝縮」にあり、単なる変更ではなく「作者の視点・感情への反映」が鍵となる。
補足:
芭蕉自身も「古池」を「古井戸」に置き換えた可能性はないだろうか?
→ 俳句は季節感や情景の厳密さを重んじるため、作者の選択が詩的効果と結びつく限り、「オリジナル性」は認められる。
→ 俳句は季節感や情景の厳密さを重んじるため、作者の選択が詩的効果と結びつく限り、「オリジナル性」は認められる。