生成AIとのブレインストーミング-芭蕉の「古池」は自然物か、人工物か?(その2)

松尾芭蕉の俳句「古池や 蛙飛びこむ 水の音」における「古池」は、自然物としての池なのか、それとも人工物としての池なのかについては見解が分かれている。(芭蕉の「古池」が実在した「古池」ではなく、芭蕉の心の中にあった心象(イメージ)としての「古池」であったとしても、それが自然物としての池なのか、人工物としての池なのかを問うことはできる。「古池」が意味する心象風景を具体的に論じるためにはそうした視点からの検討も有用である。)
 「自然物」か「人工物」かという点についてのChatGPT4oの回答は、下記のように、WEB検索を設定した場合とそうでない場合とで大きく異なるものであった。(こうした違いは、「生成AIが提示する参考資料の問題点・注意点-松尾芭蕉の有名な俳句「古池や 蛙飛びこむ 水の音」を例として」において指摘したことでもある。)

回答文章は、WEB検索を指定しなかった場合の方がかなり長文となっており、内容の真偽・正確性は別として、より興味深いものとなっている。レポートなどの作成用途ではWEB検索を指定しない場合の方が有用である。
 WEB検索を設定した場合には、WEB検索結果の処理にかかるリソース消費の分だけ、回答文章が短くなってしまうものと思われる。またWEB検索の結果として挙げている資料の中には、本稿に紹介した回答のように、日本語版ウィキペディアやYahoo!知恵袋が含まれるなど、信頼度が明確でない資料もある。

 しかしながらWEB検索を指定しなかった場合には、存在しない資料を挙げたり、まったく間違った内容の回答が返ってくることも多いため、回答の信頼性をWEB検索あるいは自分で実際に当該資料を読んでみるなどの方法でチェックすることが必要である。
 なお現状の生成AIでは、資料検索に関しては従来型のGoogle検索や各種の資料データベース検索を併用した方がより良い結果が得られる。

 ここでは、「WEB検索を設定しなかった場合の回答」について、ChatGPTなど生成AIによってWEB検索を設定した上で再チェックさせてみた。その結果は下記の通りである。

上記の再チェックの結果を見るとわかるが、こうしたチェック作業にはChatGPT4oはあまり適していない。チェック能力に関してはPerplexity AIやGemini Advanced Deep Research with 2.5 Proの方が優れており、WEB上の関連文献を数多く挙げている。またPerplexity AIでは、AIエンジンを変更したり、チェック対象を変更したりできる。(上記ではそうした変更をおこなった結果をいくつか紹介している。)

上記のチェック作業をおこなうと、「古池」について、ChatGPT4oが最初に挙げた資料の中にはなかった下記のような資料が見つかる。なおURLが記載されてはいない資料に関しても、それぞれのタイトルをクリックすると、PDFダウンロードができるようにしてある。

  • 金子兜太(2006)「蛙と柿と雪」『学士会アーカイブス』No.859
    https://www.gakushikai.or.jp/magazine/article/archives/archives_859/

    芭蕉の俳句は「古池」に蛙が飛び込んだシーンを描いたものかどうかを検討し、小泉八雲の英訳や高浜虚子の見解などを挙げながら、下記のように、「古池」には飛び込んではいないという説への共感を語っている。

    佐藤紘彰さんという人が『百匹の蛙』(One Hundred Frogs)という本で、「古池や蛙飛び込む水の音」という句がどのぐらい国際的に普及しているかということを調べて書いていますが、百何力国語かに訳されているそうです。ただ面白いことに、その中で蛙が一匹と訳しているのがほとんどで、a frogとしないでfrogsと複数形で訳しているのは一人だけだそうです。それはどなたかと言うと、小泉八雲なんですね。小泉八雲の訳は

         Old pond,
         frogs jumping in,
         sound of water.
    と、三行に分けて書いてあります。
    ****** 中略 ******
    おそらく八雲は一読、たくさんの蛙の飛び込む水の音がしていると感じたのでしょう。古池に飛び込んだというふうには受け取らなかったのではないかと私は思います。「古池や」で切れ字になっておりますから、この韻文の構成上、切れ字があれば、それは別に置かれて、「や」以下のものが、また別に置かれて、二つ組み合わせて映像をつくって詠むというのが、特に現代俳句では常識とされております。「古池や」なんですから、古池へ、とか古池に、と詠むのは一般的ではないわけです。だから八雲は、蛙が古池に飛び込んだという受け取り方はせずに、古池という映像があって、蛙の飛び込む水の音という映像があって、その映像が結びついた何とも言えず瑞々しい感触が小泉八雲の感興をそそった。
    ***** 中略 ******
    (高浜)虚子は非常に守旧的な、旧きを守ることが好きな俳人でしたから、古池に蛙が飛び込む方が好きなはずなんですが、彼の書いたものを読みますと、どうもそうでもない。蛙というのは春の季語であって、なぜ蛙を春の季語にしたかというと、蛙の生命力が盛り上がって、大いに鳴きたてて交尾をする時期である。動物を季語に持ってくる場合は、一番元気のいい時期をもってくる。芭蕉はおそらく芭蕉庵の縁側から古池を見ていて、蛙が飛び込む水の音が「ボチャン、ボチャン」とどこかから聞こえてきて、「ああ、やつらが元気づいているな、春だな」と思っている。そういう気分で書いているのではないかと、虚子は書いています。蛙は春の季語である。蛙を俳句にする場合は、その元気さを味わうということなら、古池にボチャンと飛び込んだような蛙じゃないよ、という書き方です。この虚子の解釈はいかにも庶民感覚に合いますし、そういう一般的な受け取り方がいいんじゃないかと思います。
    ***** 中略 ******
    もう一つ興味深いのは、宝井其角が「山吹や」と言ったのを認めていたら、一般の受け取り方はどうなったか。「古池や」で古池に蛙が飛び込むという解釈に倣えば、山吹の中に蛙が飛び込むことになります。句の構成上からみても、「古池や」としたときに、古池に蛙が飛び込んだという受け取り方はおかしくなります。だから、其角が「山吹や」という発想をしたということのなかに、もう既に蛙が古池に飛び込んだわけではないという謎解きがあるんじゃないか。

  • 長谷川櫂(2018)「松尾芭蕉の世界を探求する- 古池に蛙は飛びこんだか 松尾芭蕉の名句の真相」
    本テキストは、2018年1月30日開催の第55回『満月の夜開くけいはんな哲学カフェ「ゲーテの会」』の講演録を基に、公益財団法人国際高等研究所のIIAS塾「ジュニアセミナー」開催委員会が編集・制作したものである。
     本稿で長谷川櫂は、金子兜太(2006)の見解と同じく、「この句を「古池に蛙飛び込む水の音」と皆解釈しているが、そうではない。それは“古池や”の“や”にある。/俳句では、“や”のような言葉を、言葉を切る言葉、つまり《切れ字》と言う。「古池に蛙飛び込む水の音」であれば、上から続いている普通の文章である。そうではなくて、“古池や”、そして暫くあって“蛙飛こむ水のおと”と言っている。だから、蛙が水に飛び込んだとは言っているが、古池に飛び込んだとは言っていない。ここが大事なところである。」(p.9)としている。
     そしてまた、各務支考『葛の松原』の記述を根拠として「カエルの飛び込む音が、今の東京の深川にある芭蕉庵で、春なので障子が開いていたか立ててあったかは分からないが、いずれにしても部屋の中にいて句会を催していると、外からカエルの飛び込む水の音が聞こえてくる。それで芭蕉はそのまま“蛙飛こむ水のおと”と詠んだと言っている。」(p.9)としている。
     そしてまた「古池にカエルが飛び込むところを見て作ったのであれば、【古池に蛙飛こむ水のおと】でいい。そうなっていない。つまり“古池や”と切ってある。元々下の方から出来て、後に“古池や”が定まった。つまりカエルが水に飛び込む音を聞いて“古池や”という幻想を抱いた。だからカエルは確かに水には飛び込んでいるが、古池に飛び込んだというのではない。」(p.10)と記している。

  • 復本一郎(1988)『芭蕉古池伝説』大修館書店
    https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784469220582

  • 楠瀬健昭「古池・カエル・水の音」国立国会図書館デジタルコレクション

  • 林誠司(2008)「名句について4 「古池」論争1」2008-03-11
    https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498733990.html

  • 林誠司(2008)「名句について4 「古池」論争2」2008-03-12
    https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498733991.html

  • 林誠司(2008)「名句について4 「古池」論争3」2008-03-13
    https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498733993.html


    なお、以下に、「WEB検索を設定した場合の回答」および「WEB検索を設定しなかった場合の回答」を参考のために掲載する。

    WEB検索を設定した場合の回答

    松尾芭蕉の俳句「古池や 蛙飛びこむ 水の音」に登場する「古池」は、自然物としての池を象徴的に描写したものと解釈されています。​この「古池」は、長い年月を経て静寂に包まれた、自然の中にひっそりと存在する池を想像させます。​芭蕉がこの句を詠んだ背景には、自然の中での一瞬の変化や静けさを感じ取る感性があり、人工的な構造物としての池ではなく、自然の営みの中にある池を描写したとされています。​
     
    ただし、一部の資料では、芭蕉の庵の近くにあった池が句の着想の元になった可能性も指摘されています。​例えば、芭蕉の門人である杉風が川魚を放して生簀としていた池が、芭蕉庵の傍に存在していたとされ、この池が「古池」のモデルであるとの説もあります。​しかし、この池が自然の池であったのか、人工的に作られたものであったのかについては明確な記録がなく、定かではありません。 ​
     
    この俳句の革新性は、従来の和歌や俳諧で蛙の鳴き声を詠むのが一般的だった中で、芭蕉が「飛びこむ水の音」という動作と音に焦点を当てた点にあります。​これにより、静寂の中に突如として現れる生命の動きを感じさせ、読者に深い印象を与えます。​このように、芭蕉は自然の一瞬を捉え、深い感慨を呼び起こすことを目的としており、「古池」はその象徴として描かれています。​
     

    WEB検索を設定しなかった場合の回答

    芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」に関しては、芭蕉門下の俳人たちや、近代以降の俳句研究者がさまざまな注釈や解釈を加えています。以下に主だった見解を紹介します。

    【芭蕉門下の注釈】
    1. 向井去来(むかい きょらい)

    • 芭蕉の高弟の一人であり、句の趣を重んじる立場から、「古池や」の句については、「閑寂の極致を詠んだもの」と評価。
    • 去来はこの句が蕉風俳諧の転機となる句であり、俳諧が笑いや滑稽だけでなく、「さび」や「静けさ」といった情趣を表現できることを示したとしています。

    2. 各務支考(かがみ しこう)

    • 芭蕉の句を理論的に解釈した人物。支考は「古池」の句について、「無音の中に音を聴かせる構造」と評し、視覚と聴覚のコントラストに着目しました。
    • また、「古池」は「人跡絶えたる静寂の象徴」として捉えられており、蛙の飛び込む音がその静寂を破ることで、逆にその静けさの深さが際立つと解釈。

    【近代俳句研究者の見解】
    1. 久保田万太郎

    • 昭和期の俳人で劇作家でもある久保田は、「古池」の句を「演劇的でありながら静寂の心理劇」と評しました。
    • 観客(読者)は何も起きていない池を見つめるように想像させられ、そこに突然「蛙」が飛び込む。その動作と音が読者の内面を突き動かすという、演劇的構造を評価。

    2. 山本健吉

    • 近代俳句評論の大家。山本は「古池」の句を「蕉風確立の代表作」と位置づけ、特に「静寂と動きの対比」、「永遠と瞬間の交錯」を重視しました。
    • 山本は、「この句の真価は、蛙が飛び込むという行為が描かれることによって、逆説的に池の静けさ、古さ、無音の深みが強調される点にある」と述べています。

    3. 大岡信

    • 現代詩人で評論家でもある大岡信は、『折々のうた』などでこの句を取り上げ、「古池」が詩的象徴であると同時に、心理的風景であるとしています。
    • 特に「音を聴かせることで、視覚的にも空間的にも無限に広がる句」として、詩の空間性を評価。

    【まとめ】

    解釈者
    視点・特徴
    解釈の要点

    向井去来
    芭蕉の高弟
    閑寂と静謐の句として蕉風の精神を体現

    各務支考
    理論的解釈
    音の構造と静寂の表現、心理的効果

    久保田万太郎
    劇的構造の指摘
    静と動の演劇的対比

    山本健吉
    文学的評価
    永遠と瞬間の融合、蕉風確立の証

    大岡信
    詩的象徴性
    視覚・聴覚・空間性の融合した詩世界

    このように、「古池や蛙飛びこむ水の音」という句は、芭蕉の美学の中核である「さび」「閑寂」「無常」といった要素を体現する作品であり、後世の俳人・研究者たちに深い影響を与え続けています。

    必要であれば、これらの見解が記されている文献や出典もご紹介できます。ご希望があればお知らせください。

    WEB検索を設定しなかった場合の回答(続き)

    追加プロンプト文「これらの見解が記されている文献や出典を紹介してください。」に対する回答
    以下は、松尾芭蕉の俳句「古池や蛙飛びこむ水の音」に関する芭蕉門下や近代俳句研究者の見解が記されている主な文献です。​

    芭蕉門下の注釈

    向井去来・各務支考

    『葛の松原』(各務支考 著、佐々醒雪・巌谷小波 校、博文館):​支考が芭蕉の俳句について詳細に論じた作品集で、「古池」の句に関する注釈も含まれています。​

    近代俳句研究者の見解

    正岡子規

    『俳諧大要』(岩波書店、1983年):​子規が俳句の本質や芭蕉の作品について論じた著作で、「古池」の句に関する考察も含まれています。​

    山本健吉

    『芭蕉 その鑑賞と批評』(飯塚書店、2006年):​山本が芭蕉の俳句を鑑賞・批評した書籍で、「古池」の句に関する詳細な分析がなされています。

    復本一郎

    『芭蕉16のキーワード』(日本放送出版協会、1992年):​芭蕉の俳句を理解するためのキーワードを解説した書籍で、「古池」の句に関する解釈も含まれています。​

    田中善信

    『芭蕉 「かるみ」の境地へ』(中央公論新社、2010年):​芭蕉の俳句の特徴である「かるみ」に焦点を当てた著作で、「古池」の句に関する考察も含まれています。​

    これらの文献は、国立国会図書館や大学図書館で所蔵されている場合があります。​また、一部はオンラインで閲覧可能な場合もあります。​詳細な情報や入手方法については、各図書館の蔵書検索システムやオンライン書店をご確認ください。

     
    WEB検索を設定しなかった場合の回答(続き2)
    「向井去来」および「久保田万太郎」についての文献や出典の紹介を求めた追加プロンプト文に対する回答。この追加プロンプト文に対しては、WEB検索をオンにした。
    以下に、向井去来と久保田万太郎による松尾芭蕉の句「古池や蛙飛びこむ水の音」に関する見解が記された文献や出典を紹介いたします。​

    向井去来の見解と文献

    向井去来(むかい きょらい)は、松尾芭蕉の高弟であり、蕉門十哲の一人として知られています。​彼の著作『去来抄』は、芭蕉の俳諧理念や句作に関する重要な記録として評価されています。​『去来抄』には、「古池や蛙飛びこむ水の音」に関する直接的な注釈は見当たりませんが、芭蕉の俳諧観や句作の背景を理解する上で貴重な資料となっています。​
    [出典]中田雅敏(2016)『小林一茶の生涯と俳諧論研究』筑波大学学位請求論文、つくばリポジトリ

    文献情報:
    向井去来著『去来抄』​(各種注釈書や現代語訳が出版されています)
    国立国会図書館デジタルコレクションなどで閲覧可能な場合があります。​
    中国語版ウィキペディア『维基百科,自由的百科全书』

    久保田万太郎の見解と文献

    久保田万太郎(くぼた まんたろう)は、昭和期の俳人・劇作家として知られ、芭蕉の句に対する独自の鑑賞を行っています。​彼の作品や評論の中で、「古池や蛙飛びこむ水の音」に関する直接的な言及は確認できませんが、芭蕉の句に対する彼の感性や解釈を知る手がかりとして、以下の文献が参考になります。​

    文献情報:
    久保田万太郎著『久保田万太郎全集』​(各巻に随筆や評論が収録されています)
    また、彼の俳句や随筆を収録した文庫本なども出版されています。​

    これらの文献は、国立国会図書館や大学図書館で所蔵されている場合があります。​また、一部はオンラインで閲覧可能な場合もあります。​詳細な情報や入手方法については、各図書館の蔵書検索システムやオンライン書店をご確認ください。

     
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